2015年7月19日日曜日

演題 『 人として大切なこと 』 主催 NPO雨にも負けず

法話 密蔵院住職 田村圓心 

人とは、何ですか?。
では、車とは、何ですか?。大小の車? トラック? 外車?!!!!   雑然としています。
人とは、これも同じように一言では言い表せない。
顔、形、大小、名前、がマチマチ。

人と言う形の字義の説明には、「 天地の性、最も尊き者なり 」とあります。
この天地の性の性が大切です。
性とは、心が生まれると書きます。
生まれたての赤ちゃんのような無垢な心で生まれたる者が人である。



しかし成長するに従って、自分にとって好都合な欲によって成長して行きます。

自分の経験と蓄えた知識は、間違ってはいないとして他を批判します。
ということは、相手も同じように自分を正しいとして他を批判します。
経験と知識が、不必要と言っているのではありません。

とらわれない事が大事、つまり執着しないことが大切なのです。
自由であることが、大切なのです。

仏と言う字は、人がム( 無い ) と書きます。つまり、無欲( 相合依存 ) の状態を表します。
佛の字も同様です。
または、自分中心の欲から解けた人とも言い表せます。
又は、忘己利他の思いやり( 慈悲 ) のある人とも言えます。

では、仏でない人をどの様に言い表すか? 漢文では 『 不仏 』と書き表します。
つまり、仏に不( あら )ず。不( あら )ずをイ ( にんべん ) に重ねますと 『 私 』です。

好都合な欲によって振り回されている 『 私が 』、不仏です。
しかし、人には少しの欲は必要です。睡眠、食事、子孫繁栄などなど。
ですから、古くから少欲知足と申します。
つまり、コントロールが出来るのも人です。

苦を生む、世の中の真実の仕組みに気がつかれたのがお釈迦さまです。
私は、何時も申しておりますのは『 みんなが、釈迦になれば良い 』と。
お釈迦さまは、いまでは、仏と言われますが、
人間であって、苦労して、修行して気づかれたのです。
仏陀( 目覚めた人) となられたのです。
自覚できた又は、認識できた、理解できたと言っても良いと思います。

私達も同じ様に、苦労は必要です。苦労は、自分自身の糧ですよね。
昔から、「 苦労は買ってでも 」と言われます。
美しい蓮の花は、泥の中から生まれます。
その泥は、蓮の花にとっては栄養です。糧です。

今、あなたが抱えている悩み、苦しみ、悲しみを糧にして
自分自身の気づきを体験し、それを実践しましょう。

そのためには、心身が一つになって日常を過ごす訓練が必要です。

つまり、長く吐く息を日常化することです。


本日のテーマの 『 人として大切なこと 』
私自身は、大切なことの実践として、
宮沢賢治の「 雨にも負けず 」の詩にあるような実践を目標にしています。
そのためには、不仏であってはならないと考えて実践をしています。
仏道です。人としての損得を超えた実践が自身の慈悲であるように。


その仏道を歩んでいくのに必要な方法論の一つとして、心身一如を日々の日課としています。
心と身体が、常に一つとして働く様に。
食べる時は、食べる。行なう時は、行なう。

自分の意識が、そこに注意深くして、行動する。
呼吸と一体化して心身を働かす。つまり、止観。禅とも言う。
呼吸と共に、自分の内を観察して監察して、内省する。

失敗しても、やり直せばいい。継続が大切。


継続が大切と言うことは、自分自身を大切にすると言うことです。
自分自身を大切にできないでは、他を大切にできません。
自分を甘やかすと言うことではありません。

宮沢賢治のように、
雨にも、風にも、雪にも、夏の暑さにもマケヌ
丈夫なからだ( 心身 ) をもち
少欲知足で決して瞋( おこ) らず
自分を勘定にいれず


よく見ききし わかり。そして、わすれず
東に、西に、南に、北に行って寄り添い、手助けをして
日照りのときは、涙をながし
寒さの夏は おろおろ歩き


みんなに でくのボーとよばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは なりたい

つまり、他と生きていくのならば内省を研鑽して仏となって生きていくのが良い。
どのみち、自他は一つなのだから。

宇宙を造っているモノは、
動物( 人も)、植物も、鉱物も存在する全てを造っているのだから。
ただ、その組み合わせの%が違うだけなのだから。

内省をしている人の言葉は、他の人の心に届く。
内省をしている人の言葉は、自分の心に届く。
内省をしている人の言葉は、全ての生命に届く。
観音菩薩( 観世音菩薩) のように、全ての生命を生かす。

あなたにも、その様な者として生きてほしい。